『創造の方法学』という古典的名著があって、その中に、問いの立て方についての章がある。問いは「なぜ」でなければならない、というのだ。
もっとも、すべての研究上の問いを「なぜ」にするのは酷だとは思うし、かといって、チコちゃんのように、何でもかんでも「なぜ」にこじつけるのもかえって無理があると思う。
集英社新書をはじめ、多くの新書本のタイトルに「なぜ」が使われているが、「なぜ」に対してふさわしい結論がどれくらいあるかというと、疑わしい。
本書は東大副学長がグローバル教育推進にあたって、東大の、あるいは日本の大学におけるジェンダーの問題に正面から向き合ったものである。
帝国大学以来の東大における男性優位主義の伝統(?)について整理した上で、諸外国のトップ大学の事情を対置し、ケースとしてプリンストン大学の共学化の過程を紹介する。
社会学を中心とした先行研究もきちんと踏まえた、きわめて堅実な調査レポートとなっている。
なお、プリンストンでなくても、日本においても上智大学が男子校から共学化し、今では女子の方が圧倒的に多くなっている。その過程はきちんと検証されるべきではなかろうか。
そして、きちんとした競争がなされれば、東大の入学者の半数(以上)は女性になる。当然、男子校からの東大合格者数は減っていく。少子化だけではない、別の要因が、これからの高校にはやってくるのか、それともこないのか。
内容自体は目新しいものではない。
当事者としていろいろと考えながら読む本であった。
本書の内容は「なぜ東大は男だらけなのか」ではなく「これからの日本社会はどうあるべきか」に力点が置かれたものであった。それならば、本書のタイトルもまた「なぜ」じゃない方がよかったのにな、と思う。
ほんものの「なぜ」という問いに、申し訳がない。
(こ)