萩原 淳『平沼騏一郎』(中公新書)

昭和初期の疑獄事件として「帝人事件」というのがある。帝人株をめぐる贈収賄事件として合計16人が起訴され、斎藤実内閣の総辞職の契機となったが、結局、全員が無罪とされた。検察の強引な取り調べは、後に「司法ファッショ」「検察ファッショ」などとして批判された。

先週の朝ドラ「虎に翼」では、この帝人事件をモデルとした事件が1週間余りにわたって描かれた。検察の背後で糸を引いていたのは、森次晃嗣モロボシ・ダンの人!)演じる貴族院議員・水沼淳三郎。モデルは後に総理となった平沼騏一郎である。

というわけで読んでみた。萩原 淳『平沼騏一郎』。

一般には、総理に就任したものの、独ソ不可侵条約の締結を受けて、「欧州の天地は複雑怪奇」との声明を出して総辞職した人、として知られている。本作はその平沼騏一郎の評伝であり、それと同時に、当時の検察が台頭していく過程を描いた力作である。

津山藩藩士の家に生まれた平沼。東京大学法学部では穂積陳重の授業に感銘を受けた。英法科を首席で卒業した後、司法官としてのキャリアをスタートさせる。判事を務めていた時期もあるものの、基本的には検事畑を歩む。また官僚として、欧州の司法制度を積極的に取り入れ、司法制度の近代化に貢献した。大正元年(1912年)には検事総長に就任。陪審制の導入にも関与している。他方で国家主義者との交流を深め、団体「国本社」を設立したりもしている。

大正12年(1923年)に成立した第二次山本権平内閣では司法大臣として入閣。法相辞任後は本格的に政治活動に乗り出す。

様々な紆余曲折を経て、昭和14年(1939年)1月、総理に就任。平沼、74歳の時である。「国体」論や「皇道」論など、国家主義的なスローガンを主張し続けた。

日米開戦後は重臣、枢密院議長として活動し、和平派と目された。右翼に銃撃され、自宅を放火されたこともある。

戦後はA級先般として巣鴨拘置所に入所。東京裁判終身刑を言い渡される。後に病気療養のため仮釈放を許され、死去。

この本の最後の「おわりに 司法官・政治家としての功罪」と題する章がとても参考になる。平沼の生涯を振り返り、「功」と「罪」を浮き上がらせるとともに、現在社会に残した「遺産」として、検察制度を取り上げる。繰り返しになるが、力作である。

萩原 淳『平沼騏一郎』(中公新書


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