中澤篤史『運動部活動の戦後と現在 なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか』(青弓社)

新世界といえば、劇団ヨーロッパ企画の作品に「来てけつかるべき新世界」というのがありましてね、近未来のドローン飛び交う新世界の串カツ屋の娘がですねぇ・・・。

 

本を読んだ感想を人の目につくところに書く、というのは、あくまで私的な行為として適当に書き散らすに限る。実名をさらしてある話題の本を評するというのは、かなりの勇気が要ることだ。
ましてや、それが人生初の経験であり、しかも学会誌からの依頼だったなんてときには・・・。

ある冬の日に、編集部から1冊の分厚い本が届けられた。
読んでみたかった本だったこともあり、けっこういいお値段する本がタダで手に入るという下心もあって、安請け合いしてしまったのだが、のちに後悔することになる。
タダより高いものはない。

本書は著者の博士論文を公刊したものであった。
日本の運動部活動の特徴と成立の経緯を前半で論じ、後半は中学校におけるケーススタディで構成されている。運動部活動についてスポーツ社会学の観点から体系的に論じた、日本初の研究であるともいってよい。

しかし、読み始めてすぐに、書評を引き受けたことを後悔した。東大の博士論文だ、おかしいと思うのは自分の理解が足りないのだろうかと頭を抱える。出版社は5000円以上するこの本を売らんがために「現職教員必読!」と煽っている。しかしこんなの絶対に現職教員が買って読む本ではない。本書を持ち上げると、二次被害に加担することにはならないか・・・?

そのころすでに、本書については複数の書評が出されていた。いずれも本研究を激賞するものであった。現在に続く部活動問題を学術的に論じることに風穴を開けたという業績は、評価されるべきであろう。部活動問題の戦後史を整理した部分については、資料的価値は高い。

しかしたとえば、前半についていえば、日本の部活動を国際的にどう特徴付けるかにあたって、データ取得の制約があったことは十二分に理解するにしても、太平洋の島国や中南米の小国なども比較対象に加えられており、ここから日本の特徴を論じるのはきわめて難しい(せめてOECD加盟国の中で比較するべきだろう)。
さらに困ったのは後半で、事例選択と解釈の恣意性を疑わざるを得ない記述が次々と現れる。「N=1」、つまりたった1校のケーススタディでそこまで言っていいのか。さらにひどいものについては、校内に2人いるはずの先生のうち、1人だけのインタビューデータが引用されていて、もう1人については影も形も現れない。もしかすると仮説に合わないことでも話したか、という疑念を持たざるを得なかった。

さて、これを3000字そこらでどう書くか、だ。
書評の前半で要約し、後半の最初によかった点を持ち上げ、その後、残念な点として何点か(やんわりと)指摘し、これらを踏まえても本書が世に出た意義は大きいと玉虫色の結語をつけて締めくくってみた。もやもやしたものが残ったが、自分の筆力ではこれ以上できなかったし、論戦に持ち込むにはあまりに自分の知識量が足りなさすぎた。
ちなみに著者からのリプライは掲載されなかった。

その後、2回書評を書いた。どちらも(十分に読み込めた自信がなく)満足のいくものにはならず、あらためて書評の難しさを思い知った。その経験から、今もういちど本書を評することを依頼されれば、まったく違ったことを書く。しかし、覆水は盆には返らない。
本書の後に、大月書店から本書の内容をまとめた本が出版された。そちらの方がまだ、現職教員が読む本としては、はるかにましだ。

なお、本書については、きわめて明快な論評が公刊されている。本書と一緒に、自分のふがいない書評もぶった斬られているということでもある。
(神谷拓,2018「中澤篤史著『運動部活動の戦後と現在』における引用資料の曲解―仮説設定の手続きに注目して―」『宮城教育大学紀要』52)

 

いつかどこかで吐き出したいと思っていたことだった。ようやく、胸のつかえが、少し取れた。

(こ)