五味文彦=本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡(3)幕府と朝廷』『同(4)奥州合戦』(吉川弘文館)

引き続き、『現代語訳 吾妻鏡』。

第3巻「幕府と朝廷」は文治2年(1186年)から文治3年(1187年)までを描く。

源平合戦も終わり、平和な世の中に・・・とはいかないのが歴史の常。前年に源義経源行家追討の宣旨が頼朝に下され、義経は行方をくらます。各地では武士の押領が問題となり、京では強盗が頻発。新政権の樹立時というのは、やはりこういう権力の空白地帯みたいなのがどうしても生じるものなのか。

ところで頼朝が、だんだんヒールっぽくなってきた。

例えば、文治2年4月8日。静は頼朝に命じられ、鶴岡八幡宮で舞を披露することに。工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を担当(豪華だ!)。静の義経を想う歌に対し、頼朝激怒。これを北条政子がとうとうと諭してなだめる・・・という有名なエピソードである。頼朝の短気ぶりが目立ち、政子がすごくいい人っぽく見える。

他にも、静の生んだ男児を頼朝が命じて殺させたり(同年閏7月29日。政子は「宥めたがかなわなかった」とある。)、静が京に向けて出立する際、政子が静に送別の品を渡したり(同年9月16日)などと、頼朝の株は下がりまくり、政子の株は上がりまくる。

まあ静をめぐる記述は他の史料にはなく、曲筆だとも言われているところであるが、いずれにせよ、このあたりから徐々に、北条得宗家が権力を握ること(そして、頼朝の血筋を将軍職に就けないこと)の正当性というものが前に出てきている感じがする。

この巻の終わりの方で、藤原秀衡死去(文治3年10月29日)。時代が、動く。

そして第4巻「奥州合戦」。文治4年(1188年)から文治5年(1189年)までを描く。

この巻は、なんといっても義経の死亡、そして頼朝自らが出陣した奥州合戦と、その結果としての奥州藤原氏の滅亡である。

義経の死亡を確認(文治4年6月13日)してから、奥州合戦を決断(同月24日)するまでの期間が短い。奥州への出陣は、既に既定路線であったことがうかがわれる。そして、朝廷の宣旨を受けないままでの出陣。大庭景能(景義)の「軍陣中では将軍の命令を聞き、天子の詔は聞かない」との発言(同月30日)が象徴的である。奥州合戦とは、幕府における御家人体制を樹立した、最後の1ピースなのであろう。

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五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡(3)幕府と朝廷』『同(4)奥州合戦



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