苅谷剛彦『追いついた近代 消えた近代 -戦後日本の自己像と教育―』(岩波書店)

 今年の最後は、自分のフィールドから1冊。
 
 私たちは、modernという英単語に「近代」と「現代」という2つの意味を与えている。「近代」と「現代」の違いは何かといわれると、実は明らかではない。そして日本の近代は日本の「(追いつき型)近代化」とセットになって進められてきた。そのため、「近代化」が終わったとされたとき、日本から「近代」が消えた、というのが著者の発見である。そして、日本の「近代化」の終わり(という勝手な定義)とともに、日本の迷走が始まった理由として、著者は、そもそも日本の「近代化」を主導した統治エリートたちが都合よく目標とするべき「近代」を定義し、そのための政策手段をひねり出し(著者は「エセ演繹型の政策思考」と酷評する)、トップダウン的に現場に落とし込んでいった政策プロセスの存在を指摘する。日本の教育改革(とその失敗)は著者の長年の研究テーマのひとつであるのだが、過去の個別の研究の積み上げが日本の「近代化」論と結びつくことで、大きな日本社会論となって示されている。かなり仮説的でアクロバティックな議論が展開される部分もあるが、そのあたりは社会学お家芸ともいえるものであるし、分厚い事例研究と経験の蓄積がそれを補っている。本書は著者のイギリスでの研究生活の集大成となっている。

 著者は、東大教授から公募でオックスフォード大学に移ったのだけれど、日本の「頭脳流出」はこれからも止まらないだろう。彼が日本の大学に見切りをつけたのは2008年。それから10年、事態はよりいっそうひどくなっている。今や、教育利権に群がる「お友達」のために教育「改革」がつぎつぎと実装され、畑違いの官僚たちが不倫旅行のついでにノーベル賞受賞者を恫喝しに行くなんていう、そんな国に成り下がってしまった。

 

 来年も、すばらしい本との出会いに恵まれますように。
 みなさま、よいお年をお迎えください。

追いついた近代 消えた近代: 戦後日本の自己像と教育

追いついた近代 消えた近代: 戦後日本の自己像と教育

 

 (こ)