森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)

 森見氏の手にかかれば、山月記は大文字に駆け上がってツバまき散らすし、メロスは京都市内走り回るし、北白川別当町を自転車で走り、百万遍に鯉を背負った乙女が現れ、夷川ダムには狸の一家が暮らすようになる。

 さて今回は、鴨川べりにビッグベンがそびえるヴィクトリア朝京都で、下鴨本通で開業するDr.ワトソンが馬車に乗って向かうは、寺町通221Bで暮らす盟友シャーロック・ホームズのアパートメント(下宿の主はもちろんハドソン夫人)。このところホームズはとんでもないスランプにあって、上の階に引っ越してきた(同じくスランプのどん底にある)モリアーティ教授と意気投合しているという具合で、京都警視庁(スコットランドヤード)のレストレード警部も心配している。ワトソンが雑誌に書き連ねてきたホームズ譚も休載を余儀なくされ、代わってワトソンの妻・メアリがアイリーン・アドラーの事件簿を連載して大評判となっている。

 そんなホームズが12年前に迷宮入りしたレイチェル・マスグレーブ嬢失踪事件の調査に乗り出す。舞台は洛西の竹林。「ロンドン」というパラレルワールドも登場する。なぜマスグレーブ氏は突然、取り憑かれたように月探査ロケットを開発し始めたのか。そして<東の東の間>の謎とは・・・?

 

 もう、好きにしてください(笑)、としか言い様がない。

 

 特製しおりとブックカバー付き。

(こ)

津村記久子『水車小屋のネネ』(毎日新聞出版)

引き続き本屋大賞ノミネート作品。この際、普段なかなか読まなさそうなタイプのを読んでみた。津村記久子『水車小屋のネネ』。

18歳の理佐は、8歳の妹・律と2人で暮らすことに。水車小屋にはしゃべる鳥のネネがいて――。

姉と妹の、40年にもわたる生活を描いた長編である。決して恵まれているとはいえない2人に、様々な人が手を差し伸べる。そこには計算も見返りもなく、ただただ人のやさしさがあるだけである。

鳥のネネの存在が際立つ。冷静になって考えてみるとと、果たしてこんな鳥がいるのかどうか微妙なのだけれど、そこは物語の妙。ネネはネネとして存在している。

周囲の人たちとの適度な距離感もよい。人の暖かさに触れることのできる良作である。

津村記久子『水車小屋のネネ』(毎日新聞出版


(ひ)

クリス・ミラー(千葉敏生訳)『半導体戦争』(ダイヤモンド社)

「放課後ミステリクラブ」、さっそく買ったらチビが一瞬で読み終えて、「おもしろかったよ」とご満悦でした。

 

半導体の歴史は、第2次大戦後における世界の覇権の歴史でもある。

最初はアメリカ国内の物語であった。真空管の時代から、トランジスタが登場し、シリコンウエハーを用いた製造技術によって半導体が飛躍的に革新を遂げる。技術の進歩するとともに、軍事的な重要性も高まり、ついにソ連軍はアメリカの半導体の前に屈する。

ソ連の次にアメリカに立ちはだかったのは日本であった。市場を席巻する日本の半導体は、日米間に経済戦争を引き起こす。
1990年代に入ると、アメリカでインテルが復活を果たし、日本の時代が終わる。そこへ台湾(TSMC)と韓国(サムスン)が殴り込みをかける。ジョブス率いるアップルも負けてはいない。我が世の春を謳歌したインテルであったが、イノベーションを忘れた企業が生き残れるほど市場は甘くはない。

そこへ中国が台頭してくる。国家ぐるみでどんな手を使ってでも半導体の覇権をアメリカから奪いに来た中国と、トランプのアメリカ、そこにTSMCサムスンが加わって、米中間の緊張が高まる。

最終章では中台戦争についても言及されている。台湾の半導体産業が「シリコンの盾」となってアメリカの関与を引き出して中国を抑止できるという考えに対して、著者は懐疑的である。米中戦争が勃発した場合、半導体に関しては米ロ間のようなワンサイドゲームになることはなく、中国はTSMCを奪取することを躊躇せず、その結果世界経済は深刻な危機に陥りかねない。

 

ナノミリメートル以下の極小の世界から浮かびあがる、壮大な物語。
とてもおもしろく、一気に読み終えた。
原著は2022年に刊行され、邦訳が出たのは2023年。

(こ)

知念実希人『放課後ミステリクラブ 1 金魚の泳ぐプール事件』(ライツ社)

平安時代という沼にどっぷりハマっているうちに、気が付けば本屋大賞の季節になっていた。とりあえず何か読むか・・・と思っていたところ、目についたのがこちら。知念実希人『放課後ミステリクラブ 1 金魚の泳ぐプール事件』。

本屋大賞の常連ともいうべき知念実希人が、初めて書いた児童向けミステリである。と同時に、本屋大賞史上、児童書として初のノミネート作品でもある。地方(明石市)の出版社が手がけた本のノミネートという点でも、話題となった。

児童向けらしく、人の死なないミステリとなっている。とはいえ内容は本格派。冒頭で謎が示され、次いで主人公たちの紹介。ミステリといえば「ホームズとワトソン」のように2人組が定番だが、本作は男女とりまぜた3人組としているところが目新しい。

終盤にはお約束の「読者への挑戦」。作品中、ミステリの「古典」ともいうべき作品がいくつか出てくるのも何だか嬉しい(巻末でも改めて取り上げている。)。

人生で最初に手に取るミステリとして、なかなかよいのではないだろうか。

知念実希人『放課後ミステリクラブ 1 金魚の泳ぐプール事件』(ライツ社)


(ひ)

青山美智子『リカバリー・カバヒコ』(光文社)

作品の波長というものがあって、それが文体なのかストーリー展開なのかわからないけれど、波長が合うのか読んでいて細胞レベルで落ち着く作品というものがある。
自分にとっては、それが青山美智子さんの作品である。だから本ブログで自分が紹介したものの中で、登場回数がいちばん多いのではないかと思われる。

青山作品は、『赤と青のエスキース』でちょっと異彩を放ったけれど、基本は同じ路線である。
本作もそうで、公園のボロボロになったカバの遊具をめぐる同じマンションの住人たちの、5つの回復の物語(泰斗の頭、紗羽の口、ちはるの耳、勇哉の足、和彦の目)。「カバヒコ」と呼ばれるこの遊具に触れると、治したいところが回復するというのだ。

「人呼んで、リカバリー・カバヒコ。・・・カバだけに。」

 

今回も、たっぷり癒されました。

本屋大賞ノミネート作品。今年は、あの成瀬が立ちはだかる。

(こ)

関 幸彦『刀伊の入寇』(中公新書)

せんせいが『戦争の日本古代史』を推してきたということで、こちらはこれを紹介。関 幸彦『刀伊の入寇』。

藤原道長政権下の1019年、対馬壱岐と北九州沿岸が女真族によって襲われる。この平安時代最大の対外危機ともいえる「刀伊の入寇」について、その背景から経緯、後世に与えた影響までを解説した本である。

防衛に当たったのは、藤原道隆の子・隆家。道長の甥に当たる。有力武者を統率して奮闘し、これを撃退するも、死傷者や拉致被害者は多数に上った。

本書はこの「刀伊の入寇」につき、日本側の軍制史という視点からも論じているのが興味深い。律令軍団制の形骸化と、軍事官僚ともいうべき新しいタイプの中下級官人の出現。そして、新羅海賊の度重なる侵攻と、これへの対応策としての俘囚(中央政府に帰順した蝦夷)の西国防衛への転用。そのような中で、「刀伊の入寇」は起こった。

当時の被害者の生の声も複数残されており、本書でもその一部が引用されている。特に、刀伊軍に拉致され、後に高麗船に助けられて帰還した女性の証言は、時を超えた臨場感があり、生々しい。

何にせよ、平和が一番である。

関 幸彦『刀伊の入寇』(中公新書


(ひ)

倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書)

藤原道長関係で倉本先生の本を先日検索したからだろう、この本がおすすめリストの中に並べられたので、少し古い本(2017年)だがタイトルにつられて購入。

買ってよかった。

中学生のころ、白村江の戦いで倭が大敗したのに、なぜ戦争指導者たちはクビにならなかったのか不思議だった。その謎を今ようやく解いてくれたのが本書である。

白村江の戦いには前史があって、古代朝鮮半島には長らく三国(高句麗新羅百済)と小国の分立する加耶諸国があり、倭は三国の対立にしばしば割って入る形で半島に影響力を及ぼしながら、加耶から鉄を輸入するなどしていた。そうした中で、倭は三国の戦争に巻き込まれる。その結果が、高句麗好太王との戦いにおける大敗であった(この大敗で倭は「馬」の軍事的重要性を痛感したらしい。ウマという日本語は中国語の「マ」であり、駒(コマ)は「高麗」である)。

その後、加耶をめぐる新羅百済の争いの中で、倭は百済との関係を強めつつ、宋がなぜか倭「王」と認めたりしたこともあって、朝鮮半島から「調」を受け取るというタテマエが幅を利かせるようになった(向こうにしてみればお土産を渡す程度の意識だったにしても、こちらからは相手が朝貢してきたように振る舞った)。

知らなかったのだが、古代では、他国を占領すると、その兵団を国内で抱えておくわけにはいかないので、厄介払いのためにその兵を使って海外遠征する。うまくいけばそこに居座らせ、失敗しても口減らしができるからだ。隋の高句麗遠征もしかり、実は蒙古襲来の江南軍もそうした兵たちであったという(そりゃ弱いはずだ)。

さて、高句麗遠征に失敗した隋は滅び、続く唐もまた三国の戦いに介入する。高句麗百済と結び、さらに倭とも良好な関係をつくる。対して新羅は唐と結んだ。こうした中で百済新羅に侵攻され、王や貴族が国を離れる。百済からの支援要請を受けた倭は、3度の援軍を派遣する。こうして倭は「世界大戦」に巻き込まれていくのであった。

ここで冒頭の疑問が明らかになる。なぜ戦争を指導した中大兄や鎌足がその後も指導者として君臨できたのか。筆者はいくつかの仮説を立てる。対外戦争によって強力な中央集権体制をつくりあげることが目的だったのではないか、そして白村江の戦いの後も唐や新羅の侵攻に備える非常事態が継続させて国家改造を実現しようとしたのであれば、中大兄たちは最初から勝てなくてもよかったのではないか(もちろん勝つ可能性はあるという判断があったから出兵したのだろうが)。

その後、朝鮮半島への出兵にそなえて東国から兵を募っていたところへ、大海人が吉野を脱出してその兵を奪い、一気に近江の大友を攻略する。西国は白村江の戦いで疲弊し、しかも九州の守備隊を畿内に抜くことは安全保障上できなかった。大海人の完全な勝利である。

そして天武と持統が完成させたのが、律令国家である。しかし、律令国家というのは軍事国家であり、厳しい税負担と兵役はそのためである。律令国家が日本で長続きしなかったのは、北東アジアに和平がおとずれたことで、戦時体制が不要となったこともあるらしい。

その後、藤原仲麻呂新羅出征計画、新羅・高麗との敵対、刀伊の入寇(ここで道長も実資も登場)、と話は進む。この過程で、日本は「東夷の小帝国」を自覚するようになる。すなわち、中華帝国冊封を受けず、アイヌや北方民族から琉球を(小)帝国の秩序の内に収め、朝鮮半島もまた入朝する蕃国のひとつとみなすようになる。

この世界観はずっとこの国の歴史認識にも影響を与え続けている。秀吉の出兵もそうだし、近代の朝鮮政策もそうである。とりわけ「中国未満朝鮮以上」を自負してきた日本が当然のように、「中国未満日本以上」を自負してきた朝鮮を植民化したことが、相手にもたらす屈辱感は、いかほどのものであったか。

本書はこうして、白村江の戦いを中心に、古代北東アジアのパワーゲームと日本(倭)の内政問題の間を行き来しながら、近現代にまでつながる「対外戦争の日本史」の根底に流れる「異国観」を、丁寧な史料読解にもとづいて浮かび上がらせている。

目からウロコが落ちました。

(こ)