倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書)

藤原道長関係で倉本先生の本を先日検索したからだろう、この本がおすすめリストの中に並べられたので、少し古い本(2017年)だがタイトルにつられて購入。

買ってよかった。

中学生のころ、白村江の戦いで倭が大敗したのに、なぜ戦争指導者たちはクビにならなかったのか不思議だった。その謎を今ようやく解いてくれたのが本書である。

白村江の戦いには前史があって、古代朝鮮半島には長らく三国(高句麗新羅百済)と小国の分立する加耶諸国があり、倭は三国の対立にしばしば割って入る形で半島に影響力を及ぼしながら、加耶から鉄を輸入するなどしていた。そうした中で、倭は三国の戦争に巻き込まれる。その結果が、高句麗好太王との戦いにおける大敗であった(この大敗で倭は「馬」の軍事的重要性を痛感したらしい。ウマという日本語は中国語の「マ」であり、駒(コマ)は「高麗」である)。

その後、加耶をめぐる新羅百済の争いの中で、倭は百済との関係を強めつつ、宋がなぜか倭「王」と認めたりしたこともあって、朝鮮半島から「調」を受け取るというタテマエが幅を利かせるようになった(向こうにしてみればお土産を渡す程度の意識だったにしても、こちらからは相手が朝貢してきたように振る舞った)。

知らなかったのだが、古代では、他国を占領すると、その兵団を国内で抱えておくわけにはいかないので、厄介払いのためにその兵を使って海外遠征する。うまくいけばそこに居座らせ、失敗しても口減らしができるからだ。隋の高句麗遠征もしかり、実は蒙古襲来の江南軍もそうした兵たちであったという(そりゃ弱いはずだ)。

さて、高句麗遠征に失敗した隋は滅び、続く唐もまた三国の戦いに介入する。高句麗百済と結び、さらに倭とも良好な関係をつくる。対して新羅は唐と結んだ。こうした中で百済新羅に侵攻され、王や貴族が国を離れる。百済からの支援要請を受けた倭は、3度の援軍を派遣する。こうして倭は「世界大戦」に巻き込まれていくのであった。

ここで冒頭の疑問が明らかになる。なぜ戦争を指導した中大兄や鎌足がその後も指導者として君臨できたのか。筆者はいくつかの仮説を立てる。対外戦争によって強力な中央集権体制をつくりあげることが目的だったのではないか、そして白村江の戦いの後も唐や新羅の侵攻に備える非常事態が継続させて国家改造を実現しようとしたのであれば、中大兄たちは最初から勝てなくてもよかったのではないか(もちろん勝つ可能性はあるという判断があったから出兵したのだろうが)。

その後、朝鮮半島への出兵にそなえて東国から兵を募っていたところへ、大海人が吉野を脱出してその兵を奪い、一気に近江の大友を攻略する。西国は白村江の戦いで疲弊し、しかも九州の守備隊を畿内に抜くことは安全保障上できなかった。大海人の完全な勝利である。

そして天武と持統が完成させたのが、律令国家である。しかし、律令国家というのは軍事国家であり、厳しい税負担と兵役はそのためである。律令国家が日本で長続きしなかったのは、北東アジアに和平がおとずれたことで、戦時体制が不要となったこともあるらしい。

その後、藤原仲麻呂新羅出征計画、新羅・高麗との敵対、刀伊の入寇(ここで道長も実資も登場)、と話は進む。この過程で、日本は「東夷の小帝国」を自覚するようになる。すなわち、中華帝国冊封を受けず、アイヌや北方民族から琉球を(小)帝国の秩序の内に収め、朝鮮半島もまた入朝する蕃国のひとつとみなすようになる。

この世界観はずっとこの国の歴史認識にも影響を与え続けている。秀吉の出兵もそうだし、近代の朝鮮政策もそうである。とりわけ「中国未満朝鮮以上」を自負してきた日本が当然のように、「中国未満日本以上」を自負してきた朝鮮を植民化したことが、相手にもたらす屈辱感は、いかほどのものであったか。

本書はこうして、白村江の戦いを中心に、古代北東アジアのパワーゲームと日本(倭)の内政問題の間を行き来しながら、近現代にまでつながる「対外戦争の日本史」の根底に流れる「異国観」を、丁寧な史料読解にもとづいて浮かび上がらせている。

目からウロコが落ちました。

(こ)