E.H.カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』(岩波新書)

 去年『歴史とは何か』の新訳が出た。どうしようかとアマゾンのカートにとりあえず入れた。さっそくついたレビューを読んでいると、旧訳(清水訳)は軽妙な名訳であると言われ、新訳(近藤訳)は資料として上級者が読んだりあるいはカーを批判的に読むにはこちらの方がよいとか書いてあって、どうしようかと思っているうちに、そのまま1年が経ってしまった。

 そんな折に、旧Twitterで「葛西氏がもっと早く亡くなっていればリニアの見直しもできたのではないか」とつぶやいたら、「それは早く死ねばよかったということか?」というリプライがついた。「言葉には気をつけられた方がいいのでは?」という忠告であった。
 個人的には今さら浮上式リニアは時代錯誤だろうと思っているので、計画は見直すべきだったと思っているし、その見直しをさせなかった絶対権力者・葛西氏についての評価は、彼の歴史観や実際の教育政策への介入も含めて、自分の中ではネガティブである。しかしそれとこれとは話が別で、たとえば「徳川家康が3年早く亡くなっていれば大坂の陣は起きなかったのではないか」ということは考えてもいいことだろう。歴史にifはないけれど、歴史をifで考えることは思考実験として大切だと思う。

 というわけで、古い新書を引っ張り出してきて読み返す。

 クレオパトラの鼻が低かったら歴史は変わったのだろうか。トロツキーが鴨猟に出て発熱しなかったら権力闘争に勝てていたのだろうか。そうした偶然は歴史なのか。歴史は科学なのか。歴史に向き合う歴史学とは、歴史家の役割とは。

 「現在の光に照らして過去の理解を深め、過去の光に照らして現在の理解を進める」という歴史の二重の相互的機能があって、そして我々は未来を展望することができる。

 これからも、歴史を学び、歴史に学んでいかなくちゃ、と8月を迎えるにあたって確認する。
 新訳は・・・まだいいかな。

(こ)