西條奈加『心淋し川』(集英社)

直木賞候補に挙げられたということで,読んでみることに。西條奈加『心(うら)淋し川』。

江戸の片隅,千駄木の一角にある「心町(うらまち)」。淀んだ川のそばにある古びた長屋を舞台にした,6作の短編からなる連作短編集である。

表題作でもある第1話「心淋し川」から第3話「はじめましょ」までは人情話。人生,そう悪いことばかりでもないよね,などと思いながら読む。

第4話「冬虫夏草」は変化球。ぞわっとした読後感が残る。

そして第5話「明けぬ里」を経て,物語はいよいよ最終話「灰の男」へ。これまで度々登場してきた差配の男・茂十の,過去,そして現在の話である。

「忘れたくとも,忘れ得ぬ思いが,人にはある。」(192頁)

茂十の胸に去来したのは,寂寥か,それとも・・・。

どれもこれも,読んで良かったと思える作品。1話1話をじっくり味わうように読ませていただきました。

心淋し川

心淋し川


(ひ)

柚木麻子『BUTTER』(新潮文庫)

 あけましておめでとうございます。
 大先生、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 首都圏連続不審死事件の被告人・梶井真奈子が雑誌記者の町田里佳に出した条件は、マーガリンを捨て、本物のバターを食べることだった。熱ごはんにたっぷりと乗せたバターが溶けて交じり合ってゆく。
 それは、仕事や人間関係でカラカラに乾いている心と体に、カジマナの世間の視線など気にせず歯に衣着せない生き方が染みこんでいくように。こうして、取材として里佳がカジマナに近づくうちに、少しずつ少しずつ、里佳の心の中にカジマナが入り込んでいく。

 前半、緊張感が張り詰めた文体がときどき不協和音を奏でる。そうした中で、バター醤油ごはんをはじめとする料理がストーリーを進めていく。カジマナに近づいた男だけではなく、親友の伶子も、里佳自身も、料理教室の生徒たちも、カジマナに関わる人たちは次々と、ちびくろさんぼのバターになった虎たちのように溶けていく。
 彼女たちは、それぞれに回復していく。それを支えたのもまた、バターだった。あたたかくとろけるような文体の中で、里佳はふたたび歩みを始めるのである。

 なお、この本は、2018年の「第1回全国中学生ビブリオバトル決勝大会」で優勝した中2の女の子が紹介していたものだ。彼女は、ひたすらバター醤油ごはんのおいしさを絶賛しながら、女性らしさとは何か、男性が求める女性像とは何か、に斬り込んでいた。なるほど、そういうふうに読んだのか。おじさんが読むと、また違うんだな。

 2017年上半期直木賞候補作。
 山本一力の解説が、またよい。

BUTTER (新潮文庫 ゆ 14-3)

BUTTER (新潮文庫 ゆ 14-3)

  • 作者:柚木 麻子
  • 発売日: 2020/01/29
  • メディア: 文庫
 

 (こ)

2020年の104冊

岩合光昭『ねこ科』(クレヴィス)
直木賞本屋大賞候補作 大予想!
猫組長『金融ダークサイド』(講談社
呉兢『貞観政要』(守屋洋訳,ちくま学芸文庫
大滝世津子『幼児の性自認 幼稚園児はどうやって性別に出会うのか』(みらい)
坂井孝一『承久の乱』(中公新書
福和伸夫『必ずくる震災で日本を終わらせないために。』(時事通信社
塩野七生『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(上下巻・新潮文庫
幸田文『流れる』(新潮文庫
小川 糸『ライオンのおやつ』(ポプラ社
幸田文『崩れ』(講談社文庫)
大山誠一郎『アリバイ崩し承ります』(実業之日本社文庫)
加賀乙彦『死刑囚の記録』(中公新書
知念実希人『ムゲンのi』(上下巻,双葉社
朱野帰子『科学オタがマイナスイオンの部署に異動しました』(文春文庫)
瀬戸晴海『マトリ 厚労省麻薬取締官』(新潮新書
キャリー・マリス『マリス博士の奇想天外な人生』(ハヤカワノンフィクション文庫)
青柳碧人『むかしむかしあるところに、死体がありました。』(双葉社
門井慶喜『自由は死せず』(双葉社
小梅けいと『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ原作/KADOKAWA
データスタジアム株式会社 『野球×統計は最強のバッテリーである   セイバーメトリクスとトラッキングの世界 』(中公新書ラクレ
マルクス・ガブリエル『世界史の針が巻き戻るとき』(大野和基訳・PHP新書
原朝子『患者になった名医たちの選択』(朝日新書
トゥキュディデス『戦史』(久保正彰訳・中公クラシックス
山田剛史他『Rによるやさしい統計学』(オーム社
サン=テグジュペリ『戦う操縦士』(鈴木雅生訳,光文社古典新訳文庫
辻村深月『朝が来る』(文春文庫)
ヴォルテール哲学書簡』(斉藤悦則訳,光文社古典新訳文庫
湯浅邦弘『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 呻吟語』(角川ソフィア文庫
フローベール『三つの物語』(谷口亜沙子訳,光文社古典新訳文庫
岩田健太郎『新型コロナウィルスの真実』(ベスト新書)
山本太郎感染症と文明』(岩波新書
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄(上下巻)』(草思社文庫)
ヴォルテール『寛容論』(斉藤悦則訳,光文社古典新訳文庫
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上・下)』(河出書房新社
凪良ゆう『流浪の月』(東京創元社
半藤一利保阪正康『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社
羅貫中三国志演義』第1巻・第2巻(立間祥介訳,角川ソフィア文庫
桃崎有一郎『「京都」の誕生 武士が造った戦乱の都』(文春新書)
羅貫中三国志演義』第3巻・第4巻(立間祥介訳,角川ソフィア文庫
佐々木慶昭『日本カトリック学校のあゆみ』(コルベ新書)
後深草院二条とはずがたり』(佐々木和歌子訳,光文社古典新訳文庫
出口治明『「教える」ということ』(角川書店
伊坂幸太郎『逆ソクラテス』(集英社
周防柳『蘇我の娘の古事記』(角川春樹事務所)
今村翔吾『じんかん』(講談社
清水潔『鉄路の果てに』(マガジンハウス)
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集03『竹取物語伊勢物語堤中納言物語・土左日記・更級日記』(河出書房新社
三浦しをん『星間商事株式会社社史編纂室』(ちくま文庫
馳 星周『少年と犬』(文藝春秋
姫野カオルコ『忍びの滋賀 いつも京都の日陰で』(小学館新書)
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集07『枕草子方丈記徒然草』(河出書房新社
瀧本哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』(星海社新書)
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集08『日本霊異記・今昔物語・宇治拾遺物語・発心集』(河出書房新社
竹宮惠子『少年の名はジルベール』(小学館文庫)
伊東玉美編『宇治拾遺物語』(角川ソフィア文庫
伊藤祐靖『邦人奪還 自衛隊特殊部隊が動くとき』(新潮社)
保阪正康近現代史からの警告』(講談社現代新書
明『漫画家しながらツアーナースしてます。こどもの病気別“役立ち”セレクション』(集英社
松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿 0(ゼロ)』(角川文庫)
大村はま『教えるということ』(ちくま学芸文庫
コミック5選 バーナード嬢曰く。 イチケイのカラス 異世界失格 かがみの孤城 蜜蜂と遠雷
ブレイディみかこ『ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち』(筑摩書房
五十嵐律人『法廷遊戯』(講談社
森見登美彦上田誠原案)『四畳半タイムマシンブルース』(角川書店
野口雅弘『マックス・ウェーバー-近代と格闘した思想家』(中公新書
田崎健太『スポーツ・アイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる』(太田出版
マックス・ウェーバー世界宗教の経済倫理-比較宗教社会学の試み 序論・中間考察』(中山元訳,日経BPクラシックス
村上春樹『一人称単数』(文藝春秋
綾辻行人十角館の殺人』(講談社文庫)
ブリギッテ・シテーガ『世界が認めたニッポンの居眠り』(阪急コミュニケーションズ)
筒井康隆筒井康隆、自作を語る』(日下三蔵編・ハヤカワ文庫)
村上春樹東京奇譚集』(新潮文庫
フランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』(河野万里子訳・新潮文庫
青山美智子『ただいま神様当番』(宝島社)
辻堂ゆめ『あの日の交換日記』(中央公論新社
油井大三郎『避けられた戦争 1920年代・日本の選択』(ちくま新書
筒井康隆残像に口紅を』(中公文庫)
橋爪大三郎『パワースピーチ入門』(角川新書)
町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』(中央公論新社
半藤一利加藤陽子『昭和史裁判』(文春文庫)
星野舞夜ほか『夜に駆ける-YOASOBI小説集』(双葉社
村上世彰村上世彰、高校生に投資を教える』(角川書店
上橋菜穂子精霊の守り人』(新潮文庫
播田安弘『日本史サイエンス』(講談社ブルーバックス
河野裕『昨日星を探した言い訳』(角川書店
高橋誠『かけ算には順序があるのか』(岩波書店
再び,コミック5選 SPY×FAMILY 新九郎、奔る! ふしぎの国のバード リーガルエッグ 精霊の守り人
鹿島平和研究所・PHP総研編『日本の新時代ビジョン 「せめぎあいの時代」を生き抜く楕円形社会へ』(PHP新書
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集13『樋口一葉 たけくらべ夏目漱石森鴎外』(河出書房新社
桜井俊彰『長州ファイブ サムライたちの倫敦』(集英社新書
宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫
三浦しをん『マナーはいらない 小説の書きかた講座』(集英社
ヴォルテールカンディード』(斉藤悦則訳・光文社古典新訳文庫
ハル・グレガーセン『問いこそが答えだ!』(光文社)
モーパッサン『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』(太田浩一訳・光文社古典新訳文庫
柳瀬博一『国道16号線 「日本」を創った道』(新潮社)
プーシキン『大尉の娘』(坂庭淳史訳・光文社古典新訳文庫
相澤真一・髙橋かおり・坂本光太・輪湖里奈『音楽で生きる方法 高校生からの音大受験、留学、仕事と将来』(青弓社
吾峠呼世晴鬼滅の刃』第23巻(ジャンプコミックス
西浦博(聞き手 川端裕人)『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(中央公論新社
モーパッサン『宝石/遺産』(太田浩一訳・光文社古典新訳文庫
藤岡陽子『きのうのオレンジ』(新潮社)
綿矢りさ『私をくいとめて』(朝日文庫

綿矢りさ『私をくいとめて』(朝日文庫)

祝! YOASOBI紅白出場決定!!

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さて。

綿矢りさ原作の映画「私をくいとめて」(主演:のん)の予告編が面白かった。監督・脚本は「勝手にふるえてろ」と同じく大九明子さんとのこと。当ブログでも紹介したが,「勝手にふるえてろ」はなかなか良い映画だったので,こちらも期待。

ということで,原作『私をくいとめて』を読んでみることに。

独身の女性を主人公にした小説である。

冒頭の,食品サンプル作りのシーンから読ませる。わずか数ページで綿矢りさワールド全開である。細かい描写。多彩な比喩。思わず吹き出したくなるような心の揺れ。

そして,本作品の主題ともいえる,主人公とその脳内の「A」の会話が始まっていく。それも,自然な形で。

笑って,どきどきして,ちょっとしんみりもして。まあ,人生,そうだよね。

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というわけで,激動の一年が終わろうとしている。
とにかく大変な年だったけれど,本があったから何とか乗り越えられたのかもしれない(月並みですが)。

それでは,せんせいも皆様も,良い年をお迎えください。

私をくいとめて

私をくいとめて

  • 作者:綿矢りさ
  • 発売日: 2017/01/06
  • メディア: 単行本

(ひ)

藤岡陽子『きのうのオレンジ』(新潮社)

913.6

食欲と性欲と睡眠欲とは人間の三大欲求だというが、とにかく、睡眠欲を満たすので精一杯の生活を続けていると、小説を読むという行為にまでなかなかエネルギーを回すことができない。部活の近畿大会のために奈良の五條に向かう電車に揺られながら、いつ以来だったか思い出せないくらい久しぶりに、NDC9類を読む。

レストランの店長として東京で毎日忙しく働く遼賀は、高校の同級生である看護師・泉と偶然再会する。遼賀にスキルス胃がんが見つかり、すでに転移が進んでいた。遼賀は故郷の岡山に戻り、同い年の弟・恭平たちとともに、残された時間を過ごす。

遼賀の死というゴールが設定され、そこに向かって一本道にストーリーが進んでいく。劇的な何かがあるわけではない。淡々と、しかし遼賀に関わるすべての人たちの善意によってオレンジ色に彩られた明るさと暖かさの中で、遼賀は天に召されてゆく。

著者は現役の看護師さんである。命の砂時計が落ちていくのを見守るにあたり、ガン患者を取り巻く人間の心理描写に強引さを感じないのは、抑制された文体のせいもあろうが、そのためもあろう。

 

来年も、よい本との出会いがありますように。

きのうのオレンジ

きのうのオレンジ

  • 作者:藤岡 陽子
  • 発売日: 2020/10/26
  • メディア: 単行本
 

 (こ)

モーパッサン『宝石/遺産』(太田浩一訳・光文社古典新訳文庫)

第164回直木賞の候補作が,以下のとおり発表されました!

・芦沢央『汚れた手をそこで拭かない』(文藝春秋
・伊与原新『八月の銀の雪』(新潮社)
加藤シゲアキ『オルタネート』(新潮社)
西條奈加『心(うら)淋し川』(集英社
坂上泉『インビジブル』(文藝春秋
・長浦京『アンダードッグス』(KADOKAWA

何と全員が初ノミネート。25年ぶりのことだそうです。
当ブログで前作『チュベローズで待ってる』を紹介したNEWSの加藤シゲアキさんも初ノミネートです。おめでとうございます!(やっかみも激しそうだけど・・)

それにしても西條奈加さん,あなたもうベテランじゃないですか・・。初ノミネートとは意外でした。コミカライズもされた『善人長屋』は面白かったなぁ・・。

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さて。

再びモーパッサンの中・短編集を読むことに。今回は『宝石/遺産』。6編の作品を収録している。

やはりどれも珠玉の作品だが,ここでは表題作の「宝石」と「遺産」に言及したい。

まずは「宝石」。内務省に務めるランタン氏は,ひとめぼれした妻と幸せな毎日を送っていたが,2つだけ不満があった。妻が芝居好きなことと,イミテーションの宝石類に目がないこと・・・。

・・・なんだこれは(笑)。

思わず二度読みした。最後の2行がまた秀逸。人生,こんなもんだよ,というモーパッサンのシニカルな笑いが聞こえてきそうである。

もう一編は「遺産」。海軍省に務めるカシュランは,娘を前途有望な青年・ルサブルと結婚させることに成功。ところでカシュランには独身の姉がおり,大金を所持していて・・・。

・・・なんだこれは(笑笑)。

もうね,悲劇を通り越して喜劇ですよこれは。いや,本人たちは必死なんだろうけどね。

いずれの作品も,モーパッサンと登場人物たちの適度な距離感が心地よい。モーパッサン,おもしろい。


(ひ)

西浦博(聞き手 川端裕人)『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(中央公論新社)

都市封鎖中の武漢のようすを書き綴った『武漢日記』は市民の目で見たコロナであるが、これはおそらく初の本格的な、コロナと戦っている側からのドキュメンタリーである。書かれているのは、彼が厚生労働省クラスター対策班で奮闘した1月から5月までの記録であり、川端氏によるまとめやインタビューが氏の証言を補完する。

彼は「8割おじさん」として一躍有名になった。本書の中でもその根拠が丁寧に示される。最悪の事態を想定するのは危機管理であり、たとえば福島沖の地震で15メートル超の津波が発生することもまた、最悪の事態として想定されるべきであったことは言うまでもない。しかし今、日本の第3波はじわじわと拡大する中で、その反動かどうか対策は腰が据わらず(あのときガマンしなくてもよかったんじゃないのか?)、政権幹部は迷走している。

西浦氏をはじめ、多くの日本のエース級の研究者が集まって、何の見取り図もない中でコロナ制圧のために、今も全身全霊を振り向けて打ち込んでいる。大将の尾身茂氏がこの国にいたことは僥倖だと思う一方、本来大将として国民の生命と財産を守るべき政治家の力のなさにため息をつく。

EBPM(証拠に基づく政策決定)という言葉があちこちで言われるけれど、実際にそれをしようとすると、いろんなしがらみや義理や人情が入ってきて(政治とはそういう世界でもあり) 換骨奪胎ということはそこらじゅうである話。しかし、それを当然としてはいけない。今年は日本学術会議問題で、科学者のあり方も問われた。今は、分野を超えてすべての科学者(社会科学系も含む)が総集結し、自分たちの得意分野からできる取組みを進めるべきなのだろう。 

(こ)