舞台は1944年のドイツというから、セラフィマたちが東部戦線を押し戻しているころのことだ。ヒトラーとヒムラーを批判したという密告によって父を処刑されたヴェルナーは、敵討ちをしようとしたところをエルフリーデによって止められる。ナチスのもとですべてのドイツ人は「民族共同体に帰属する限り」仲間がいて居場所があったのだが、「裏切り者の息子」ヴェルナーにはそれがない。そんなヴェルナーが誘われたのが、ナチスに反抗する若者たちの組織「エーデルヴァイス海賊団」であった。
彼らはある日、町を通る貨物列車の行く先の秘密を知ってしまう。そこは強制収容所であり、貨物列車から次々と降ろされた人間が、見るに堪えない扱いを受けて、あたかもモノとして捌かれてゆく。彼らは鉄道の爆破を決断する。それによって少しでも犠牲となる人を減らすためだ。爆破は成功するが、彼らは軍に追われ、捕まった2人の仲間は絞首刑となった。大好きな学校の先生も、ヴェルナーの助けを求める呼びかけに「あなたたちのことなんて知らない」と言い放つ。ドイツが無条件降伏するのは、刑が執行された直後のことであった。
なおこの話は、フランツ老人による壮大な回顧録という形をとっている。こうして作者は、現代と過去とを登場人物の生涯や家族を介して結び付けている。
「なぜ、人が収容され死んでいくことに対して、普通の市民が冷淡になれるのか」というヴェルナーの思考の形をとって、作者はファシズムの日常性について言及する。ヴェルナーの導き出した答えはこうだ。「国民国家」に進んで同化し、その内側にいる限り、権力は自らを弾圧することはなく、外側にある存在は思いやりや同情の対象とはならないのである。ファシズムを支えたのは(吉見義明も、アーレントも、フロムも指摘するように)平凡で善良な草の根の市民たちである。鉄道爆破事件が戦後どのように町で「なかった」ことにされ、告発者が変人扱いされたのかを描写を通して、市民たちの「うしろめたさ」が強調される。
この「うしろめたさ」が戦後のシオニズムを後押しし、シオニズム国家がパレスチナで何をしても、欧米はこれを黙って見過ごすことになる。現在進行中のガザでの虐殺を、国際アウシュビッツ評議会が是認する決議を出したのに対し、ホロコーストの研究者有志「ホロコーストの記憶の濫用に対する公開書簡」を出して対抗している。イスラエルの国連大使は胸にゲットーの象徴でもある黄色いワッペンをつけて演説しながら、天井のない監獄に閉じ込めた人たちの頭に爆弾を落とし続ける。
本書のテーマのひとつは「究極の悪の前に人はどう立ち向かうか」ということであった。しかし、その「究極の悪」がやすやすと政治利用されたことによって絶対悪が相対化され、被害者が被害者であることを振りかざしながら嬉々としてジェノサイドの加害者となっている構図を目の前にして、今だからこそ本書は読まれるべきなのか、それとも現実の前に本書のテーゼは吹き飛ばされてしまったと考えるべきか。
読み終わっても、頭の中で考えがグルグルと回り続けている。まとまらない。
(こ)
逢坂さんのサインはこんなの。
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