高野秀行『イラク水滸伝』(文藝春秋)

 すごい本だった。

 まず、イラクに巨大な湿地帯があって、そこに水の民が暮らしているなんて知らなかった。本書はアフワールと呼ばれる地(チグリス川とユーフラテス川の下流域)に飛び込み暮らした、初の日本人による記録である。
 彼の地は、粘土と葦が生んだメソポタミア文明発祥の地であり、古からときの権力に抵抗する勢力や、迫害を受けた少数者が、高さ8メートルにもなる葦原の中に逃げ込んできた。それに怒ったサダム・フセインが、湿地を干上がらせて反体制派を殲滅するという無茶な作戦を立てて実行したけれど、政権崩壊後、さまざまな人たちの手によって湿地に水が戻ってきた。昔からの氏族社会が色濃く残る中で、葦の浮島と、水牛の乳のチーズと、鯉の網焼きが訪問者をもてなす。筆者がこの地を水滸伝になぞられるのも、不正と汚職が絶えないイラクにあって、毅然たる男達(男、というより漢)が暮らす辺境の地であるからだ。

 それは単なるノンフィクションではなく、旅行記でもあり、文化人類学民俗学の本でもあり、国際政治の本でもあり、世界史の本でもある。写真やイラストも盛りだくさんで、地図も詳しい。
 筆致は軽妙洒脱。477ページ、ぎっしり詰まって1ページたりとも無駄がない。それでいて2,420円(税込)と破格、コスパ最高。

 自分も昔、シリア、ヨルダン、レバノン、エジプト、あるいはモロッコと、アラブの地をバックパック背負って旅したことがある。中東和平の機運が高まり、シリア内戦なんて想像もできない時代のことだ。日本円も強かった。
 そのときの、ひりひりした感覚を思い出しながら、読み進める。ボーッと生きてることが許されない、でも、人との濃すぎる関係性の中で、自分の輪郭を絶えず意識しながら、生きた時間だった。

 もう、おなかいっぱい。幸せ。

(こ)