波多野誼余夫・稲垣佳世子『無気力の心理学 やりがいの条件』(中公新書)

 この1週間は、学年末考査の作問実施採点(ただいま徹夜で採点の途中・・・)に明け暮れ、その合間には心理学系の本しか読まなかったので、2週連続で申し訳ないです。

 いちばんおもしろかったのが、先週の『人はいかに学ぶか』の前に書かれた『無気力の心理学』。
 さまざまな実験事例を紹介しながら、どのようなときに無力感/効力感が獲得されるのか(イヌでさえ無力感を獲得する!)、どうすれば自律性が養われ効力感が得られるのか(自己選択だけではダメ、成功体験だけでもダメ、報酬だけでもダメ)、どのような学校教育が望ましいのか、という論点を明らかにしていく。

 こういう本を読むと、ひとりひとりの子どもたちの中にある力を引き出すのが教師の役割だということを、改めて考えさせられる。こうした学習観や教育観に基づいて、今日もあまたの授業実践が積み上げられているのである。

 

 さて、こうした心理学的アプローチを、社会学からのアプローチは一瞬で吹っ飛ばす力を持つ。
 この点については、市川伸一『学ぶ意欲の心理学』(PHP新書)の中で、心理学的アプローチによる教育改革の問題点を指摘する教育社会学者の苅谷剛彦との対談が組まれており、こちらでその論点は整理できる。教育改革を支える「学習観」「学力観」は、心理学の中では「俗流」でしかなく、そのあたりを理解しないで心理学批判をするのは心外だ、というのは、たしかにもっともな話。とはいえ、学習指導要領とかで示されるふんわりとした個人の描写は、市川氏のいう「俗流」心理学そのものであって、それが教育政策を論じる上で大きな問題であることは、否定できないだろう。

 そうした中で、教育改革が求める「能力」観のゆらぎを、「メリトクラシー再帰性」をキーワードに斬っていく、破壊力抜群の論考が、中村高康『暴走する能力主義 教育と現代社会の病理』(ちくま新書)である。
 教育社会学を修めた身としては、こっちの方が読んでいてよくわかって楽しいのだけれど、残念ながら、学校現場では社会学よりも心理学の方が幅を利かせているし、実際に役に立つ。

 

 まだまだ勉強。

無気力の心理学―やりがいの条件 (中公新書 (599))

無気力の心理学―やりがいの条件 (中公新書 (599))

 
学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)

学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)

 
暴走する能力主義 (ちくま新書)

暴走する能力主義 (ちくま新書)

 
 

(こ) 

垣根涼介『室町無頼』(全2巻,新潮文庫)

「文庫化されたら読もう」と思っていたところ,文庫化された。この2月はそういう作品が多かった。これもその一つ。垣根涼介『室町無頼』。
 
応仁の乱より少し前の,京の都。治安は乱れ,町には餓死者があふれている。少年・才蔵は,ならず者の頭目にして市中警護役の骨皮道賢(ほねかわどうけん)に拾われ,浮浪の徒・蓮田兵衛(はすだひょうえ)に預けられる。やがてこの3名は,それぞれの立場で,時代の扉を切り開いていく・・・。
 
室町時代の京都という舞台設定がよい。戦国時代という実力主義の世の中よりも,わずかばかり前。いわば「夜明け前」の時代である。そこで生き,それぞれの「役割」を果たそうとする3名の男たち。これが面白くないわけがない。なお,このうち骨皮道賢と蓮田兵衛は実在した人物でもある。
 
個人的には,比叡山の山法師・法妙坊暁信のキャラクターが良かった。基本的には悪役なんだけれども,どこか憎めない。気が付けば,ちょっと心の中で応援したりしていた。
室町無頼(上) (新潮文庫)

室町無頼(上) (新潮文庫)


室町無頼(下) (新潮文庫)

室町無頼(下) (新潮文庫)


(ひ)

稲垣佳世子・波多野誼余夫『人はいかに学ぶか 日常的認知の世界』(中公新書)

 「わかってくれた」と思っていた相手がほんとうのところはわかっておらず、実は「わからない」ということがわからなかった、というできごとがあって、「わかる」とは何か、ということについて考えさせられることがあった。
 いわゆる「メタ認知」というやつに関係するらしい、ということで、それっぽいタイトルの本を買いあさって読んでみた。しかし、ビジネス書、ハウツー本、授業方法論などと多岐にわたって、ますますわからなくなった。

 そんな中の1冊が本書で、これはすとんと、腑に落ちた。

 最初に、詰め込み教育に代表される「伝統的な学習観」ではなく、「もうひとつの学習観」として、「現実的必要」からの学びや「知的好奇心」にもとづく学びの効果に注目する。
 一方、日常生活を送る中で「浅い」理解で終わってしまうことは多い。その理由として、理解よりも「うまくできる」ことの方に価値が置かれやすいこと、そして(言葉によってではなく)日常生活における以心伝心的コミュニケーションが概念的理解を妨げていることがあげられる。
 いくつか重要な指摘として、時間に追われ速やかな処理を求められる環境では深い理解は達成できないこと、知的好奇心にもとづく学び手の能動性は外的強制力によってはもたらされないこと、「もの知り」に価値が置かれた社会では記憶術に熟達した人が生まれやすく、反対に理解することに価値を置く社会では「なぜ?」の問いを多用したり子どもが質問することを奨励するということ(=ということはいくら学校でこういう教育をやったところで、社会や文化がそれを受容し奨励しければ、意味がない!?)、などなど。

 さて、本書が出されたのは1989年。まさに「生きる力」「ゆとり」「新しい学力観」が主張された時期と重なる。そういえば、あの時期の教育改革は心理学の影響が強かったと聞く。なるほど、こういう理論的な背景があったのだな。

 とすると、その改革から30年、「脱ゆとり」を経て「主体的・探究的な学習」へと続く、絶えざる教育改革の議論の中で、心理学的アプローチはどのように修正され、あるいはどのように再評価されてきたのか、今いちど考えてみなければならないのだろう。

 「知之為知之、不知為不知。是知也。」

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)

 

 (こ)

プラトン『テアイテトス』(渡辺邦夫訳,光文社古典新訳文庫)

光文社古典新訳文庫では,1,2年に1冊くらいの割合でプラトンの著作を刊行している(僕もずっと読み続けている。)。本が売れない,ましてやギリシャ哲学の本などそうそう売れないのではないかもと思われるこの時代にあって,貴重な存在である。
 
今回,『テアイテトス』の新訳が刊行されたので,早速読んだ。「知識とは何か」をテーマに,若き数学者・テアイテトスがソクラテスと対話する。
 
書かれている言葉は平易だが,内容は決して平易なものではない。僕もどれだけ理解できたのか,心もとない。それでも,普段使っていない頭の部分を使って読書するというのは,なかなか楽しい。本書では時折,ソクラテスが「脱線」するのだが,これもまた,面白い。
 
それにしても,『テアイテトス』におけるソクラテスの問いは,どこまでも優しい。これに対するテアイテトスの受け答えも,真摯で心地よい。こういう先生と生徒,いいなあ。
テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

(ひ)

スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット『民主主義の死に方 二極化する政治が拓く独裁への道』(新潮社)

 フォローしているtwitterのタイムラインでは国会のようすが逐一報告されている。一昔前なら「こんなことがあったら内閣ぶっ飛ぶでしょ!?」というようなことが、笑うくらいに次々とレポートされるのだが、それがしれっとスルーされて、テレビのニュースでは一切取り上げられないようなことが、日常と化してきた。慣れというのか、正常化バイアスとでもいうのだろうか、そんなもののように思えてしまうのは、おそろしいものだ。

 昨年アメリカで出版され、その秋に邦訳が出されたもので、 エーコの講演「永遠のファシズム」とともに、書評欄でけっこう取り上げられていた本である。

 本書では、民主的手続きによる独裁の完成が、比較政治学のアプローチによって示される。
 その特徴はいくつかあるが、権力者による「審判の抱き込み」「プレーヤー追放」「ルール変更」を踏まえて、社会の分裂と二極化を進行させてその流れに乗りながら、さまざまな規範を次々と踏みつぶして乗り越え、独裁が完成していくという。
(ただしこの3つをすべてクリアしたのは、エクアドルベネズエラだけなので、この比較テーブルがどこまで有効かは措いておく。)
 そしてその上で著者たちは、トランプ政権を採点する。

 さて、こうしてみたとき、わが日本は・・・?

 なるほど・・・。

 ゆでガエルは、こうやってできあがっていくのだろう。

民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道

民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道

 
永遠のファシズム (岩波現代文庫)

永遠のファシズム (岩波現代文庫)

 

(こ) 

米澤穂信『本と鍵の季節』(集英社)

ざらり,とした後味の残る連作短編集。米澤穂信『本と鍵の季節』。
 
高校生の「僕」と,その友人の松倉詩門(しもん)。2人は学校の図書委員である。ある日,先輩がやってきて,2人に頼み事をするのだが・・・。
 
高校生活を舞台にした,全6編のミステリである。どの短編でも謎が提示され,その謎は最終的には2人によって解かれる。しかし謎が解けたからといって,必ずしもハッピーエンドが待ち受けているわけではない。むしろ,いずれも少々心をざわつかせるような展開になっていて,それが小説としての奥行きを生み出している。
 
「僕」と詩門の軽妙なやり取りは読んでいて小気味よい。「僕」の詩門に対するまなざしも。最終話「友よ知るなかれ」は,ちょっと良かった。
 
続編,出るのかな。
本と鍵の季節 (単行本)

本と鍵の季節 (単行本)

(ひ)

辻村深月『凍りのくじら』(講談社文庫)

『ぼくにとっての「SF」は、サイエンス・フィクションではなくて、「少し不思議な物語」のSF(すこし・ふしぎ)なのです』(藤子・F・不二雄

 高校生の理帆子と、失踪した写真家の父、ガンで闘病する母、両親の親友で世界的ピアニスト・松永、ストーカーとなる元彼・若尾、言葉を失った郁也少年、別所あきら先輩、友人たち・・・そんな彼女の、Sukoshi Fushigiで、Sukoshi Funwariして、Sugoku Furueru物語。

 すべての章が、ドラえもんの道具の名前になっていて、参考資料は、『ドラえもん』全45巻と、『大長編ドラえもん』と、そこに流れる哲学と優しさの全て。

  辻村深月、25歳の作品である。

 そんな彼女が、来月公開の映画ドラえもんの脚本を手がけている。
 ノベライズされたドラえもんは、ちょっと読みづらかったけれど(読みながら映像と声が聞こえてくるのは、どうも落ち着かない)、彼女のドラえもん愛は十分に伝わってくる。

 

 「大事なことは、全て、『ドラえもん』と藤子先生から。」

凍りのくじら (講談社文庫)

凍りのくじら (講談社文庫)

 

(こ)