稲垣佳世子・波多野誼余夫『人はいかに学ぶか 日常的認知の世界』(中公新書)

 「わかってくれた」と思っていた相手がほんとうのところはわかっておらず、実は「わからない」ということがわからなかった、というできごとがあって、「わかる」とは何か、ということについて考えさせられることがあった。
 いわゆる「メタ認知」というやつに関係するらしい、ということで、それっぽいタイトルの本を買いあさって読んでみた。しかし、ビジネス書、ハウツー本、授業方法論などと多岐にわたって、ますますわからなくなった。

 そんな中の1冊が本書で、これはすとんと、腑に落ちた。

 最初に、詰め込み教育に代表される「伝統的な学習観」ではなく、「もうひとつの学習観」として、「現実的必要」からの学びや「知的好奇心」にもとづく学びの効果に注目する。
 一方、日常生活を送る中で「浅い」理解で終わってしまうことは多い。その理由として、理解よりも「うまくできる」ことの方に価値が置かれやすいこと、そして(言葉によってではなく)日常生活における以心伝心的コミュニケーションが概念的理解を妨げていることがあげられる。
 いくつか重要な指摘として、時間に追われ速やかな処理を求められる環境では深い理解は達成できないこと、知的好奇心にもとづく学び手の能動性は外的強制力によってはもたらされないこと、「もの知り」に価値が置かれた社会では記憶術に熟達した人が生まれやすく、反対に理解することに価値を置く社会では「なぜ?」の問いを多用したり子どもが質問することを奨励するということ(=ということはいくら学校でこういう教育をやったところで、社会や文化がそれを受容し奨励しければ、意味がない!?)、などなど。

 さて、本書が出されたのは1989年。まさに「生きる力」「ゆとり」「新しい学力観」が主張された時期と重なる。そういえば、あの時期の教育改革は心理学の影響が強かったと聞く。なるほど、こういう理論的な背景があったのだな。

 とすると、その改革から30年、「脱ゆとり」を経て「主体的・探究的な学習」へと続く、絶えざる教育改革の議論の中で、心理学的アプローチはどのように修正され、あるいはどのように再評価されてきたのか、今いちど考えてみなければならないのだろう。

 「知之為知之、不知為不知。是知也。」

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)

 

 (こ)