カティ・マートン『メルケル 世界一の宰相』(文藝春秋)

生まれて間もないアンゲラは、厳格なルター派の牧師である父とともに、ハンブルクから東ドイツへ向かっていた。非凡な才能を持つアンゲラであったが、聖職者の娘として、秘密警察国家で生き残る術を幼いながらに身につけていく。学生時代の最初の結婚と離婚を経て、アンゲラはベルリンの壁の崩壊を目の当たりにする。そこから政治家としてのアンゲラ・メルケルが誕生する。

アンゲラ・メルケルの強さは、明晰な頭脳と、物理学博士としての徹底したエビデンス重視の思考、神への信仰、東ドイツ時代に培われたリアリズム、そして民主主義への絶対的な信頼である。この武器を駆使して、女性差別の根強く残る政界でのし上がっていく。それは一見「鉄の女」マーガレット・サッチャーと似ているようにも見えるが(彼女もまた科学者である)、メルケルは言葉を駆使しない。彼女は浮わついた言葉を信じていないからである。

この信念と姿勢は、プーチンと、習近平と、そしてトランプと対峙するときに、強烈に輝く。とりわけ、同じ時期に東ドイツで暮らし壁の崩壊を言質で経験したプーチンとは、多くの共通点を持ちながらもふたりはきわめて対照的であり、メルケルは文字通りプーチンの前に立ちはだかることなる。エカテリーナ二世ロシア文学を敬愛しながらもメルケルは民主主義の保護者として振る舞い、プーチンは皇帝になろうとした。KGB仕込みの心理戦を駆使してプーチンは世界の首脳を翻弄するが、メルケルにだけはそれが通用しなかったようだ。

本書が出たのが2021年。この年の12月、メルケルは16年間務めた首相の座から下りた。その2ヶ月後、プーチンウクライナに侵攻する。もしもメルケルが5期目に取り組んでいたら、歴史はどうなっていたことだろう。

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NHKの「映像の世紀バタフライエフェクト」がおもしろい。

1995年から96年にかけて放映された名作「映像の世紀」シリーズのあと、「新・映像の世紀」(2015~16年)、「映像の世紀プレミアム」(2016~21年)と続いたシリーズはいずれも中途半端だったのだが、「バタフライエフェクト」は授業で生徒に見せると大人気で、何人もはまった生徒が出てきて、放送翌日には「これ授業で見た方がいいですよ」とか「う~ん、まぁまぁですかね」などと評価をしてくれる。Nスペよりも5分短い45分なのも授業で使うにはちょうどいい。

その中でも神回のひとつが「ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生」である。その底本のひとつであろう本書を、ようやく読むことができた。

(こ)