須賀しのぶ『夏空白花』(ポプラ社)

夏。終戦。そして,高校野球須賀しのぶ『夏空白花(なつぞら・はっか)』は,終戦直後,「全国中等野球大会」(後の高校野球)復活のために奔走する一記者の物語である。

話は昭和20年8月15日,玉音放送の場面から始まる。新聞記者の神住(かすみ)はビルの屋上で放送を聞いているうちに,ふと,十数年前,真夏の太陽の下で甲子園のマウンドに立っていた自分の姿が脳裏によみがえった・・・。

この小説はフィクションである。フィクションであるが,このような話,実際にあったんだろうな,と思わせる。この小説の登場人物たちと同じように,高校野球復活のため,東奔西走した人たちがいたんだろう。それも終戦直後の大混乱の時期に,である。苦労が忍ばれる。

タイトルの意味も含め,読後感のよい小説である。あらためて,平和な時代に高校野球が開催されていることのありがたさを思う。

夏空白花

夏空白花

(ひ)

 

倉田タカシ『うなぎばか』(早川書房)

暑い。
こんな日には、うなぎでも食べて、元気出そうか。
そんなわけで、鰻重を食べる代わりに、本屋で手にしたのが、うなぎばか。

 

舞台は、うなぎが絶滅した世界。

秘伝のうなぎのたれをめぐる三世代の話(うなぎばか)。
密漁監視するうなぎ型ロボットと「さささかさん」の話(うなぎロボ、海をゆく)。
ポストうなぎの美味を求めて熱帯林に踏み込むと・・・(山うなぎ)。
土用の丑の日」広告阻止のために江戸にタイムスリップ(源内にお願い)。
まちがってうなぎを絶滅させてしまった神様が雄高の前に現れて・・・(神様がくれたうなぎ)。

 

うなぎがいなくなっても、きっとぼくたちは困らない。
でも、うなぎがなくなった世界の小説を楽しめるくらいには、ぼくの中にも、うなぎのいる夏がビルトインされているということらしい。

うなぎばか

うなぎばか

 

 (こ)

パスカル『パンセ(抄)』(鹿島茂訳,飛鳥新社)/アウグスティヌス『告白 III』(山田晶訳,中公文庫)

これまでいろいろ思想・哲学の本をアドホックに読んできたけれど,ちょっと基礎的なところから整理したくなって,小寺聡編『もういちど読む山川倫理』(山川出版社)を購入して読んだ(夏休みだし。)。高校の教科書を大人向けにアレンジしたシリーズの一冊である。「客観的な事実の提示(誰がどういう本を著し,どういう見解を唱えたか)」と「主観的な見解の提示(その見解は現代社会においてどのような意義を有するか)」のバランスが絶妙であった。このような教科書で倫理を学べる高校生は恵まれていると思う。

さて,この『もういちど読む山川倫理』にインスパイアされて読んだのが,パスカル『パンセ』(抄訳。鹿島茂訳,飛鳥新社)と,アウグスティヌス『告白 III』(山田晶訳,中公文庫)の二冊。

まず,パスカル『パンセ』から。・・・はい。これまで読んでいませんでした。興味はあったのだけれども,キリスト教の教義についての話が延々と続くイメージがあって,なかなか購入までには至らなかったのです。ただ,読まず嫌いになるのもなあ,と思い,まずは鹿島茂の抄訳からチャレンジ(『日経おとなのOFF』での鹿島氏のインタビューが面白かったというのもある。)。

・・・で,内容。これは「幸福論」だねえ。人間論といってもいいかもしれない。そうだよね,人はついつい,他人からよく思われたいとか,さらに多くの財産がほしいとか,いろいろ思ってしまうんだけれども,でもそれで幸せになれるかというと,そうでもないよね,と。

有名な「考える葦」の箇所についても,今回初めて,その前後を通して読むことができた。「私たちはその考えるというところから立ち上がらなければならない」,「ゆえに,よく考えるよう努力しよう。ここに道徳の原理があるのだ」,と。この精神は忘れずにいたい。

次に,アウグスティヌス『告白』。こちらは実は,「第10巻」まで(中公文庫版の『II』まで)は読んでいたのだけれど,そこで中座していた。だって,自己の半生を振り返る「第10巻」までとは異なり,「第11巻」以降は難解だっていうじゃないですか。・・・でも,中座したままにしているのも何なので,この際チャレンジしてみた。

・・・うん,確かに難解ですが(「創世記」の解釈論が延々と続く。),格調高い訳文のおかげか,なんとか最後まで読めましたよ。どこまで理解できたのか自信はないですが(特に最後の「第13巻」)。

この『告白』の中で,アウグスティヌスは,キリスト教徒としての心情とか思考とかを惜しげもなくあらわにしている。この点は大きな収穫であった。

僕はキリスト教徒ではないので,キリスト教徒の思考や心情とかは直接体験することができない。しかし,そもそも西洋文化というものはキリスト教文化であるし,僕らが享受している政治制度・社会制度の多くはキリスト教文化圏由来のものである。そうでなくてもこのグローバル社会である。西洋の人たちがどのような心情を持ち,どのような思考をしているのかを知ることは,とても重要なことであろう。

パスカル パンセ抄

パスカル パンセ抄


(ひ)

白井聡『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)

 今年上半期、たくさんの新書が刊行されたけれど、個人的に1位はこれだと思う。
 『永続敗戦論』で一躍論壇に躍り出た白井聡氏が、近代前半(明治維新~敗戦)と近代後半(敗戦~現在)について「国体」の形成・安定・崩壊、という3つの時代区分を設定しながら、現在日本の立ち位置を浮かび上がらせる論考である。

 戦前の「国体」(近代天皇制)に類するものは何か、それが「対米従属体制」であり、その形成期・安定期を経て、現在は「対米従属の自己目的化」のプロセスにある、ということになる。対米従属はその見返りに「アメリカの第一の子分」と「アジアで唯一の先進国」の地位を約束してくれた。しかし今、その幻想はもろくも崩れ去ってしまった。「だからこそ」なんとしてでも「アメリカに愛されなければならない」。先週亡くなった翁長沖縄県知事の沖縄と米軍と日米安保をめぐる根源的な問いかけに、日本政府と日本国民が答えることができなかった理由も、ここにある。

 そうであるならば、近代前半における「国体の崩壊」過程が破滅の道を突き進んだように、現在が「国体の崩壊過程」もまた、自滅への道をひた走っているということになる。そう、二度目は喜劇として。

 彼がこの本を書いたのは、今上天皇の静かにして烈しい「お言葉」と、それを嘲笑うかのような現政権との落差に突き動かされたからだという。平成の終わりを前に、この国はどこへ向かうのか。安倍政権がめざす憲法改正によって完成する「永続敗戦レジーム」によって、この国はどこへ向かうのか。日本だけでなく、世界秩序がゆるやかに壊れているのであれば、われわれはどこへ向かうのか・・・?

 すでに多くの書評が出され、評価は大きく分かれている。議論がアクロバティックになっている感も否めない。しかし、それを踏まえて、8月15日に読む本としては、悪くない。

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

(こ)

ショーペンハウアー『幸福について』(鈴木芳子訳,光文社古典新訳文庫)

話題の映画『カメラを止めるな!』(上田慎一郎監督)見てきましたよ~。
いや~,最高!!
何を書いてもネタバレになりそうなので何も書けないけれど,もう最高!!
この作品を生み出した全てのスタッフとキャストに感謝です。ありがとう!!

(なお,画面酔いする体質の人はちょっと注意です。)

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さて。

またまた『日経おとなのOFF』8月号から。こういう名著特集の良いところは,「本当はとてもおもしろい古典・名著なのに,まだ読んでいない作品」を気づかせてくれるところである。

今回はショーペンハウアー『幸福について』。そう,まだ読んでいなかったのです。あの苦虫をかみつぶしたような肖像画がどうも・・・とか(言い訳ですが)。まあ,今年に入って新訳が出たということもあって,読んでみた。

お,結構おもしろいじゃないか。

ざっくりまとめてみると,「幸福になるために生存している」というのは迷妄にすぎず,生にまつわるあらゆる出来事は「苦」が伴うので,できるかぎり「苦」を少なくする生き方を目指そう,というもの。そのためには「他人と比較したり,他人の評価を気にしたりしてはいけない」というんですね。自分がどういう人物かというのをしっかりと保持していけばよい,と。

・・・と,まあ,このようにまとめてしまうとチープな自己啓発本か道徳の教科書みたいなのだが,そこはショーペンハウアー,辛口である。というか,皮肉の連続である。それでいて,古今東西の古典・名著からの引用もふんだんにある。さすがショーペンハウアーベルリン大学ヘーゲルに勝負を挑んだだけのことはある(聴講学生数で上回ってやろう,という,わりと卑小な勝負。結局,華々しく負けた。)。

最終章では,「老い」について取り上げている。ここも面白かったなあ。この章だけでも,10年後か20年後,もう一回読み直してみようかな。

幸福について (光文社古典新訳文庫)

幸福について (光文社古典新訳文庫)

(ひ)

 

野澤千絵『老いる家 崩れる街』(講談社現代新書)

 オリンピックのマラソン競技ためにサマータイムの導入を検討するとかいう、頭のクラクラするような話を聞いて、この本のことをふと思い出した。

 続々と建設される新築マンションを見ながら、人は減るのに家建てて、どうなるんだろう、とつねづね思っていた。
 うちの実家は京都市郊外なのだが、空き家や空きテナントが目立ち始めていて、京都市でもそうなんだから、日本中こういう光景が普通なんだろうなぁ、くらいの感覚だった。

 きちんとした対策を今とっておかなかったら、過剰となった住宅が日本社会をむしばむ病理となる。
 オリンピックとかリニアとかで浮かれている場合じゃない。2年前に抱いた思いは、さらに確信に近くなっている。

老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路 (講談社現代新書)

老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路 (講談社現代新書)

 

(こ)

『ヨハネの黙示録』(小河陽訳,講談社学術文庫)

再び『日経おとなのOFF』8月号から。

名著特集の「宗教書」のコーナーで,『法華経』と並んで紹介されていたのが『聖書』である。
『聖書』かあ・・・。読んだ部分と読んでいない部分とがあるなあ。いや,むしろ読んでいない部分の方が圧倒的に多いか。
・・・などと考えながら書店の新刊コーナーを歩いていると,講談社学術文庫の『ヨハネの黙示録』の注釈付き翻訳書が積まれていた。講談社学術文庫だったら安心だよな,とか,まあ,今読まなかったら一生読まないかも,とか思って購入。

中学・高校の宗教の時間とかで「キリスト教」について教わる時間はそれなりにあったが,その内容は,「神の愛」や「隣人愛」といった普遍的な価値観の話が多く,あとはキリストの「奇蹟」や「復活」の話といった程度で,終末論の話というのはほとんど聞いた記憶がない(覚えていないだけかもしれないが)。でも,大人になってみると,この終末論,キリスト教の中では実は結構重要な教義であるように感じられてくるのである。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で出てきた「予定説」なんかは代表例だが,要するに,キリスト教というものは,終末論を知っておかないと理解が深まらないのではないか,と。

・・・さて,『ヨハネの黙示録』を読んでみた感想は,二つある。

一つめは,人間の歴史というのは,戦争とか,迫害とか,大雨とか洪水とか大地震とか火山の噴火とか,そしてこれらによる大飢饉だとかに何度も見舞われた,まさに苦難の歴史であったのだなあということ。このことを改めて感じさせられた。

そして,二つめは,この『ヨハネの黙示録』,西洋の歴史の中で着実に,そして幅広く受け入れられていたということ。この講談社学術文庫版では,各場面について描かれた図版が,中世のものを中心に,本当に数多く収録されている。西洋の人々にとっては,この黙示録の物語は,まさに「自分たちの物語」であったのだろう。

ヨハネの黙示録 (講談社学術文庫)

ヨハネの黙示録 (講談社学術文庫)

(ひ)