もう何年もの間、NHK大河ドラマは見ていなかったが、今年の「鎌倉殿の13人」は最初から最後まで全部見た。それくらい見ごたえのあるドラマであった。
さて、第8巻の「承久の乱」まで読み進めていた『現代語訳 吾妻鏡』。どうせなら北条義時の死と、その少し先のところまでは読んでおきたいと思い、第9巻を読むことに。貞応元年(1222年)から寛喜2年(1230年)までの記録である。
まずは、貞応3年(1224年)6月13日。義時の死去である。吾妻鏡は、持病の脚気に暑気あたりが重なったとする。妻の伊賀の方に毒殺されたというのは吾妻鏡にはなく、「明月記」に出てくる話である。
義時の死後、六波羅探題として京にいた北条泰時が鎌倉に戻る(6月26日)。北条政子は大江広元の助言を得て(6月28日)、泰時の執権就任を後押しし、北条政村を執権にしようとする伊賀氏と対立。伊賀氏は政村の烏帽子親である三浦義村を味方につけようとしたが(7月5日)、政子が自ら義村邸を訪れて説得したことにより(7月17日)、義村は泰時側についた。その結果、伊賀氏は各地に配流され(政村は不問)、泰時は執権に就任した。・・・いやあ、ドラマだなぁ。
泰時は、9月5日は義時の遺領を配分するが、これは弟らに手厚いものであった。「吾妻鏡」では美談として記されているが(政子も感涙している。)、これは、泰時の政治的立場が万全ではなく、まずは身内の基盤を確立する必要があったからだという。
嘉禄元年(1225年)6月10日には大江広元が死去。そして7月11日には北条政子が死去している。強力な後ろ盾を相次いで失った泰時は、叔父の北条時房らの助けも得ながら、幕府を切り盛りしていく。
・・・とまあ、義時死後も何かと読み応えのある「吾妻鏡」。世代交代も進んで少し寂しいところはあるけれど、北条得宗家の歴史はこれからも紡がれていく。
(ひ)