前野ひろみち『満月と近鉄』(角川文庫)

昔むかし、神武天皇が日向から大和をめざして東征してきたとき、大阪湾で上陸を阻止したのが登美長髄彦。その拠点は生駒にあったという。八咫烏に導かれた神武にまさかの紀伊山地越えの奇襲に遭い、大和を征服されて殺されてしまったが、奈良県生駒市が生んだヒーローである。

 

さて、奈良に佐伯さんという女性がいて、おバカな男子3人が、次々と佐伯さんに告白して、次々と振られていく(佐伯さんと男子たち1993)。その佐伯さんは千夜一夜物語を諳んじていて、あるとき、奈良を舞台にした不思議な話を生駒山麓に住む男に聞かせてくれる(ナラビアン・ナイト)。
ところで、登美・・・じゃなかった、長脛君というとても小説が上手で京大に行った同級生に触発されて、畳屋の跡取り息子の著者(前野氏)は小説家になろうと一念発起し、生駒山麓の古アパートに立てこもる。そこにひとりの女性がやってきて、彼の小説を酷評する。しかし前野君はそこから立ち直り、すばらしい短編小説を4つ書き上げる(満月と近鉄)。その1つが「ランボー怒りの改新」であり、ベトナム戦争から帰還したランボー中臣鎌足と通じて蘇我本宗家を滅ぼすという、四畳半で悶々としながら、鯉を背負った乙女と短い夜を歩き、有頂天になった狸とともに、新釈メロスのごとく駆け回るような、気宇壮大な物語であった。

その「ランボー怒りの改新」を、小説家の仁木英之氏が、西大寺のスナックのママとなった佐伯さんから勧められて読んだことで、この在野の遺賢が世に引っ張り出されることになったという。巻末には、森見長脛・・・じゃなかった、森見登美彦氏と前野ひろみち氏の、才気ほとばしる対談が掲載されている。

前野氏は今は家業の畳屋を継いでおり、発表された小説は同人誌に掲載された3本だけなんだそうで、そこに随想として書いた1本を加えた4作品が、こうして単行本化され、文庫本化までされたのだそうだ。

今度、西大寺のスナックを訪ねて行って、佐伯さんに何か前野氏についての手がかりを聞いてみようと思う。ぼくの記憶が正しければ、前野氏は畳屋を継ぐ前に、学研都市の国会図書館で働いていた気がするのだけれど、それを確かめてみたいのだ。

(こ)