村上春樹『一人称単数』(文藝春秋)

「それで、もうよんだのかい?」
 カウンターの隣に座った男が、声をかけてきた。
 あぁ、と僕は少し気の抜けた調子で答えた。
「『ヤクルト・スワローズ詩集』、だろ? あれはよかった。」
 だいたい、僕には音楽の話がわからない。ビートルズはまだ知っているとしても、チャーリー・パーカーとかシューマンの謝肉祭とか、だからどうしたとなる。その点、神宮球場で弱小球団を熱烈に愛する話なら、ついていける。
 村上春樹の短編集は、初期のものならいくつか読んだ。現代文のS先生が毎年「レキシントンの幽霊」を教材にしていて、それのどこがいいのかわからなかった僕は、いつもS先生に喧嘩腰で議論をふっかけていた(若気の至りというやつだ)。その先生も2年前に事故で亡くなって、職員室の机の上にはしばらく、主人をなくした村上春樹の文庫本が教材のプリントとともに所在なげに積まれていた。
「それはよかった」と男はゆっくりと大きな頭を揺らした。
 それじゃあ、と男は、飲み放題のタフマンのグラスを置いて、再びよるのぱとろーるに出ていった。どあら、という相棒が今日は名古屋から来ているんだそうだ。

一人称単数 (文春e-book)

一人称単数 (文春e-book)

 

(こ)