隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書)

 AIの前には文系も理系もないだろうといわんばかりのこのご時世にあって、高校生は新学期の科目選択を前に「文系だから数学とらない」だの「理系だからとりあえず物理と化学」だの、そういうことに頭を悩ましている。

 そんな光景を横目に、タイトルから「もはや文系だの理系だの言っている場合ではない!」というような本かと思って手にしたのだが、中身はがっつり科学史の本だった。

 意外にも、著者は文系理系の区分にそれなりに理由を見つけていた。科学が宗教から切り離される過程で、(神から離れて)客観的にすべての現象をとらえようとする立場と、(神の目ではなく)人間中心の世界秩序を追い求めようとする立場は、厳然としてあるからである。ただし、理系も一枚岩ではないし、文系もまたそうである。

 科学史から見た日本の大学の現状にも記述は進む。
 西洋における科学の歴史(ディシプリンごとに「分科」した「学問」)があって、それとは対照的に東洋では「道の探究」がめざされつつ、「学術」は一段低いものとして市井の人材によって担われてきたという。そして近代日本の150年は国家建設と経済成長のために「役に立つ学問」の歴史であり、それは現在の大学の置かれた状況にもつながってくる。
 そういれば、苅谷剛彦オックスフォード大学教授は、イギリスの大学は近代国家に先行して存在し、大学が国家をつくったという強烈な自負に支えられているのに対し、日本の大学は近代国家によって国家のためにつくられたという比較をしているが、そういう大学の歴史とも無縁ではない。

 本書は他にも、学問におけるジェンダーの問題、就職の問題、学際的研究の問題にも触れている。「近代と知」についての頭の整理になった。

 (こ)