有馬哲夫『原爆 私たちは何も知らなかった』(新潮新書)

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「日本への原爆投下が決定された」という一文の次に、どのような言葉が続くだろうか。
「こうして広島・小倉・新潟などが投下目標都市に指定され、その中から広島と長崎に原爆が投下された」と続くものだと、ずっと理解してきた。
しかし、日本への投下決定が直ちには「都市住民に対する大量殺戮行為」を意味しない、という当たり前のことに、なぜ自分は今まで気づかなかったのだろう。

日本への投下には、4つの選択肢があった。
(1)原爆を無人島、あるいは日本本土以外の島に落として、威力をデモンストレーションする。
(2)原爆を軍事目標に落として、大量破壊する。
(3)原爆を人口が密集した大都市に、事前警告してから投下する。
(4)原爆を人口が密集した大都市に、事前警告なしで投下する。

実は米英加の、開発者たちも、軍人たちも、政治家たちも、(4)はできる限り回避しようとしていた。国際法違反の大量殺戮であることは明らかだからである。

しかし、トルーマン大統領は違った。彼はルーズベルト大統領の死によって大統領になったばかりであり、しかも彼への支持は高くなかった。これに持ち前の性格が加わったとき、トルーマンは(4)を選ぶ。
なにより、後のアポロ計画に匹敵する巨額の開発資金を「議会の同意なしに」支出し続けたことが明るみになった場合のことを考えると、使わないわけにはいかなかったのである。皮肉にもアメリカが民主的な国家だからこそ、原爆は使用されたともいえるのだ。
(もっとも大日本帝国海軍も、対米戦争に勝てないとは口が裂けても言えなかったために開戦を避けられなかったとも言われるので、民主的かどうかは関係ないのかもしれない。)

なお本書では、トルーマンが(4)を選んだプロセスはもっともっと複雑なものとして記述されており、原爆開発の国際協力体制は、その後の核拡散と核管理へとつながっていく。

本書はアメリカ、イギリス、カナダで機密指定解除を受けた公文書を丹念に渉猟して書かれたものである。一方で残念ながら、日本側の資料の多くは、敗戦の際に霞ヶ関の煙と消えたらしい。

原爆 私たちは何も知らなかった (新潮新書)

原爆 私たちは何も知らなかった (新潮新書)

 

 (こ)